とにかく好きを語りたい

好きなものをとにかく語ります。今は『ミュージカル刀剣乱舞』の感想がメインです。

【ネタバレ】再感想:静かの海のパライソ2021(9/27ライブ配信)

●前書き
 初見のダメージがでかすぎて翌日は見ることが出来ず、ディレイは三回しか見れなかったですが、感想をまとめました。
 ダメージがでかいといってもパライソは遠藤周作の『沈黙』の10倍希釈くらいのしんどさかなと思うのでまだ大丈夫です(あれは本気で「転ぶ」ことに向き合う作品なんで読んだ時めちゃくちゃダメージでかかったです)。
 ディレイを見て流れをメモしながら書いていたら結構な文字数になりました。気分でですますになったりだであるになったりしてますが「まあ細かいことは気にするな」の精神でお願いします(笑)。
 なんか一万字くらいになりました。

・エモサクは何者なんだ?

 初見は気づかなかったんですが、最初に出てくる老人はエモサクなんですね。これはいったいどういう意味なのか?

①エモサクは時間遡行している
 老人のエモサクに遡行軍が働きかけて若い姿にして過去に戻した。だから「25年後に救世主(天草四郎)が現れる」という情報を持っていた。

②エモサクの過去回想
 あれは過去の回想であり老エモサク=エモサクの祖父、子供=エモサクであり、子供のエモサクはキリシタン弾圧から逃げ延びた。誰かの予言した「25年後に救世主が来る」を信じ続けて現在に至っている。

③エモサクの未来の想像
 孫と穏やかに過ごす未来を想像したいが、キリシタン弾圧がその未来を阻むだろうと考えている。②と同じく救世主の存在を信じ、それを支えようとしている。

④老後のエモサク
 老後のエモサクが孫、あるいは村の子供などを見ながらふと過去のキリシタン弾圧を思い出す→物語が始まる、の流れ。

 ①は未来から来たにしてはエモサクの行動がお粗末すぎるからこれは違うかなあ。未来を知っているならもっと上手く立ち回るはず。それにもし遡行軍によって未来から過去に来たならそれは島原の乱キリシタン側を勝たせようという思惑からのはずだから、遡行軍が天草四郎を殺害したことと矛盾する。

 ②③④の方がありそうかな。「今より25年後」の「今」がエモサクの子供の頃なら年齢的に②かなと思うけどエモサクの年齢、Wikipediaだと1575年(クエスチョンマークつき)になってて、それだと島原の乱開戦の1637年には62歳になってしまうが……この物語だと30代~40代くらいの設定、ってことなのかなあ……。あの役者さんで設定62歳ってことはないと思うので……。
 ③④はどっちも似たようなものかなと思うけど、鶴丸に「長生きしろ」と言われてるし④で若い頃の島原の乱の記憶がいつまでも消えない……という描写なのかも。

 あと島原の乱の首謀者の一人かつ内通者っていうの、なんじゃそりゃと個人的には思うんですが(この物語の中でも「戦をしたがっている」のは彼だし)最初はキリシタン弾圧への抵抗のために立ち上がったけど結局途中で怖じ気づいて「転んだ」ってことなのかな……。

鶴丸の舞

 これは主への「命令はまだなのか」という催促の歌に聞こえる。「風は必ず吹く(出陣は必要になる)」なのかな、と。最初「風に逆らえるなら逆らってみろよ」は「歴史の流れには抗えない」という意味なのかと思ったけど「もう時は来てしまったぞ」と言ってるのかもと思った。

・松井ソロ

 「血」がテーマの歌。「きみに捧げよう」の「きみ」って誰だ……松井が主を二人称で呼ぶ時「貴方」だが、歌詞の都合上「きみ」になったのかな。
 豊前との再会が楽しそう。「盛大な出迎えだったみたいだな」っていうのは、普通ならあの神降ろし的な儀式はやらないのかなあ? それとも「お前も(他のみんなと同様に)盛大に歓迎されただろう」という意味か。

・日向と浦島の梅干しの歌

 音曲祭の歌、本当はこんな歌だったのか……(笑)。最初は協力してるのに途中から「梅!」「亀!」になってしまうのフリーダムすぎるな……短刀と脇差かわいいな……。

 大倶利伽羅に声をかけられて驚く二人。「話したことがない」「名前を知らないと思ってた」って相当では。でも別に二人とも悪感情はないらしく「大倶利伽羅はそういうやつ」みたいに受け入れてるのね。

・エモサク・天草四郎デュエット

 一揆の始まり。パライソと言いながら幕府側の兵を殺す民衆。この時点だとエモサクは「迷いなく」キリシタンのために戦っている様子。「愛」を歌いながら民衆を戦へと煽動する本物の天草四郎もなかなかアレだと思う。

鶴丸の編成~刀剣乱舞

 鶴丸の編成意図はなんでしょうね。

松井→刀時代に島原の乱の参加者なので連れていきたい
豊前→松井の精神的サポートをさせたい
倶利伽羅→自分のサポートをさせたい
浦島・日向→見た目が少年だから

 ……と、なんとなく思いました。天草四郎が殺害されるのは「予想はしていても止めたい事態」のはずなので、最初から浦島・日向を天草四郎役にしようとは思っていなくて、四郎が生きてる前提なら「天草四郎に警戒されずに近づく役」として配置したんじゃないのかな、と。四郎の護衛役とか。近くにいる方が守りやすいし、四郎が一揆に悩んだ時に歳が近く見える二人なら相談に乗れるかもとか、そういう思惑があったのかも。

 刀剣乱舞のBGMがちょっと違う気がします。天狼傳では省かれた「一人ずつ殺陣をして背景に名前が出る」が復活。
 2.5ラジオで「(2020の)パライソの刀剣乱舞は『静』な刀剣乱舞だった」みたいな話を聞いた覚えがあるんですが、今回の演出とは違ったのかな?

・島原に到着、天草四郎の死亡

 めちゃくちゃ根本的な話をしてしまうが、何故そんな天草四郎殺害のギリギリに到着する時間設定にしてしまうんだ……? 天狼傳は「新選組結成前」に時間遡行して近藤たちが殺されないように守っている。天草四郎一揆の起きるもっと前とかに時間遡行して殺されないように守ればよかったのでは……。島原が危ういことはわかってるのに行動が後手後手じゃないか……? これ、もしかしたら審神者は「遡行してよいのは時間遡行軍が確認できた時間のみ」みたいなのあるのかな。「先回り」は「歴史の改竄に繋がりかねないから出来ない」とか。あと「過去に長居しすぎる」と検非違使も来てしまうから出来ない(あるいは出来なくはないがリスクが高いので避けたい)とか。ゲーム的にも「遡行軍がいるから出陣しろ」で「先回りして待ち伏せろ」はないし。作劇上の都合っていうメタ的なアレもあるんでしょうけども。

鶴丸、情緒より効率優先するから損してる気がする

 鶴丸は頭の回転が早くて決断力あるので「天草四郎死亡→誰かに成り代わらせよう。このメンツなら俺と浦島と日向だな。あ、逃げないと危ないんだから死体はもうほっとけ!」って即断即決してるんだと思うけど、それが松井を怒らせちゃってるんじゃないのかな、と見直して思いました。たぶん石切丸だったら天草四郎の遺体を置いていけないエモサクに「それはもうモノだ」なんて言わずに「あなたまで死んだらどうするんだい」と「ここは危険で逃げることを優先しないと殺されてしまうよ」ときちんと伝えるんだけど、鶴丸は言葉を選ばず端的に「もうモノだ」と言ってしまう。天草四郎への成り代わりも「さっさと代役立てればいい」って悲しむそぶりも見せない。四郎の死を悲しんで「間に合わないなんてなんてことだ」と嘆いてみせたら、松井もたぶん怒らない。で、成り代わりも重苦しく説明して「大変な任務だがみんなでやり遂げよう」と言ったら、松井も殴るまでしなかったんじゃないの。鶴丸、「ちゃっちゃとやるぞ! ほらついてこい!」ってそのへん明るくやってしまうから松井の怒りゲージMAXになってしまうんだと思う。効率はいいんだろうし「憎まれ役になろうとしている」からわざとそういう言動をするんだろうけど。
 あと「浦島・日向をあまり傷つけたくない」というのがあって、だからギリギリまで島原の乱の詳細を説明しないのかな。浦島は島原の乱をほとんど知らなくて、日向は「キリシタンが弾圧された戦(具体的な犠牲者数などの詳細は知らない)」感じっぽい。最初から具体的に説明して「きつい任務だがやってくれるか?」と言っても、二人とも頷くと思うけども。ただその場合、二人とも迷いが出るから効率は落ちると思う。あと人集めの際に「子供だけは避難させた方が」とか「人数をごまかせないか」とかそういう意見が出てくるだろうな。鶴丸なら説得できるかもしれないけど、当然その分時間は浪費されてしまう。そうなると、「傷つけたくない」よりも「効率を優先」したから二人に知識を与えなかったんじゃないか、というのも思う。まあ効率的なおかつ二人をあまり傷つけない、という判断かもしれないけど。

・合言葉はパライソ

 浦島は明らかに「パライソ」の意味をわかっていないわけだけど、それが逆に「人々の心を掴む」効果になってしまった感じ。キリシタンたちが暗い気持ちの時に「パライソ」を歌う明るい歌が聞こえ自然と心惹かれるんだろう。
 日向は「豊臣末裔」という大法螺に巻き込まれたけどそれを自分の役割として果たそうとする。元豊臣臣下の人たちは別にキリスト者ではないと思うんだけど(多少のキリスト教の知識はあるのかな)、それでも「パライソ」と歌われると日向を希望の光として崇めるようになる。キリスト教を信じているかは微妙なところですが。
 ところでここのエモサクの「ドドンがドン」の歌好きです。ここの時点ではまだ裏切ろうとしてないな、と思ったり。

・大倶利伽羅ソロ

 「己を鍛える歌」であると同時に「鶴丸を支えるという決意の歌」ですね……本人には伝えずに、一人で鍛練しながら歌うのが、大倶利伽羅らしい。

・浦島のことはすごく気にかけている鶴丸

 おそらくは進捗報告で集まっている時に、浦島が傷つかないように「それは事実か」と否定の言葉を入れ大倶利伽羅の「(兄弟が亡くなった時自分が傷つくから)深入りするな」を「深入りするなは歴史が変わるかもしれないから」と意味を変えてしまう鶴丸……。そして浦島が去ったら後には「単純な暴力に走ったことこそ間違い」と本音を吐露する。日向には聞かせてもいいと判断したけど浦島には聞かせたくない、っていうのは浦島は平和な時代に生まれた刀だからか。日向は一応戦国時代を生きているし。
 にしても浦島、パライソが天国の意味と知っても「あの兄弟の母は死んでいる」とは思い至らないんですね。「行方不明なだけ」という先入観があるからすぐには繋がらなかったのかな。「母は一揆に参加しなかったから殺された」と明かした直後に暴徒化する一揆勢の描写。「なぜそんなこと(一揆への不参加)で?」という疑問に即答えをくれる仕様。個人的には日向が豊臣末裔と信じてる勢がこの時には「パライソ」を叫んでいるのが印象的だった。豊臣を復興させようとかじゃないんだ……と。

・本格的な開戦

 原城を手に入れ本格的な開戦となったあたりがエモサクが「怖じ気づいた」頃みたいですね。実際に人の血が流れるようになったら怖くなった……ってことなのかな。鶴丸がエモサクにあたりがきついのは「エモサクが始めたのに途中で怖じ気づいて幕府の内通者になったから」なのかもしれない。もしエモサクが信念持ったまま戦い続けた武士だったならもう少し優しくしたのかな。それとも、悲惨な戦を始めた愚か者として軽蔑するのか。
 鶴丸一揆勢の不穏な歌好きです。凄みがあって好き。後ろで旗振りする大倶利伽羅、本当に今回は鶴丸のサポートという役割を果たしに来ている、という感じがする。
 人間を斬ることをためらう男士の多い中、まさに「先陣をきる」鶴丸。有言実行、というか常に「実行し続けている」。

・浦島の海の歌

 音曲祭で仲のいい虎徹三兄弟を見ていたので、このバージョンはちょっと悲しい感じがしました。最終的には仲良くなれるけど。末っ子だから兄の気持ちを知って喜んでいる浦島が可愛い。

鶴丸と大倶利伽羅のデュエット

 鶴丸「(石切丸は)心根の優しい男だからな」っていうのは「俺は優しくないから大丈夫」のつもりなのか。だいぶ優しいと思うけど、鶴丸
 月に行ってみたいと言いながら「風もなく退屈」と歌を締めた鶴丸。「風=争い」で「退屈だけれど安寧の場所」ということなのかな。
 大倶利伽羅は「なぜ憎まれ役になるのか」と鶴丸に声をかけるけどあまり取り合わない。これは結局誰が声かけても鶴丸は自分が負うと決めた荷物は他人に渡さないんじゃないかな。大倶利伽羅を選んだ理由は「いざとなったら自分を支えてくれるけど口出しは最低限しかしないから」かもしれない。

・松井と豊前のデュエット

 あまりきちんと歌詞がわからないけど松井にとって「明けない夜の歌」だったのを豊前が「共に朝を待つ」と答える歌……なのかな。豊前はものすごく「寄り添う」刀ですね。その後の鶴丸の命令にも「松井に寄り添える機会をくれた」と礼を言う。「同じ赤に染まる」「俺は両手が空いているから」と言う。……松井も他の江も、きっとそれで豊前を頼りにするんだろうけど、「語る来歴を持たないから」そういう行動を取るのかな、と思ったりもします。
 鶴丸が松井たちに幕府側に行けと言うの「出陣させる以上限界まで成長させて本丸に戻す」って考えてるのでは。鬼教官か。

・始まれば引き返せない

 日向も浦島もためらいを持ちながらも人を斬る。日向の方が決断が早いのは戦国時代を通過しているからか。
 「子供は戦わせたくない」と言う浦島に「ごめん」と謝りながら譲らない鶴丸。やっぱり意図的に「引き返せない状況」を作り出すために浦島に情報を与えなかったんだなあと思った。
 矢文にひよったエモサクに容赦ない鶴丸。投獄は歴史通りとはいえ。

・知恵伊豆との対話

 「戦はあってはならない」「戦には戦で対応するしかない」「最後の戦にするために戦う」これを共有して鶴丸は満足気だが江戸時代が終わればまた戦争が起きるし2205年においても時間戦争をやっているんだよなあ……。人間がいる限り戦争は終わらない……。

・牢でのエモサクとの対話

 エモサクへの「一人でやるべきだ」は「天草四郎のような子供を巻き込むな」なのか、それとも三日月が物部を作っていることに対してなのか。鶴丸は頭がいいから「一人ではやれないこと」があるのは百も承知だろう。エモサクの心情を聞いてやらないのは、エモサクへの懲罰感情(戦争を起こした責任を取れ、心情吐露して楽になろうとするな)なのか「聞いて同情するのは御免」と思っているのか。

・兄弟の歌

 苛烈な戦場を背景にまだあどけない声で歌われるのは悲惨さを際立たせるな……。この「教えてください」と最後の「考え続けなければならない」が繋がっているのかな、と見直して思いました。

鶴丸の海への叫び

 鶴丸の怒りとしては「三日月が助けてるのは『諸説』に逃がせる者が中心。この三万七千の「名の残らぬ民」の多くは救えない。いまは一人命を拾えたが、それで救った気になるな、三万七千全員救ってみせろ(出来ないなら半端なことするな)」ってところがあるのかな。ここで「連れていってやれよ、パライソへ!」のパライソは「『生きて』安寧に暮らせる地」なんだろうか。殉死出来たかどうかに鶴丸は興味なく「戦に命が奪われたこと」に対してただ悲しみと怒りを持ってるんだろう。
 自分の気持ちのことこうして言葉に出来て叫べる分鶴丸は十分強いと思う。ちゃんとふらついた時の支え役も「自分で」配置しているし。……けどこうやって出来が良すぎるから苦労している気がする……。

・珍しいラスト

 ラストに、過去の人物が笑い合うシーンが挟まれている。『ひとひらの風』の時のように過去の回想的でなく、死者生者関係なく、ただ笑い合っている。一度幕が降りた後に出演者全員で礼をするのは演劇の定番だけれど、その前に笑い合う登場人物たちが入れられている意図はなんなのだろう……。
 今回、曲数が多いのにエンディング曲がなかったのがちょっと寂しいのですが、この演出のためにわざと入れてないのかなあ。

・「弱い人間」がたくさん描かれていた

 途中で心折れてしまうエモサク、戦を知らないの二人の侍とか、一揆の農民たちとか、今回は「弱い人間」がたくさん描かれていたな、と思います。これまでだと、歴史上の人物も芯の強い人ばかりだった気がします。今回の登場人物なら知恵伊豆みたいな。「普通のひとびと」が描かれているのかな。

・その他思ったこと

 パライソはこれまでの刀ミュと比べて「見終わった時の爽やかな感動」みたいなのがないなと思いました。みほとせや天狼傳は元主の死とかつらいことがあっても、「無事に歴史を守れて良かった」という達成感とか感動とかありました。でも、今回は「『歴史』は守れた、それが『どんな歴史』でも……」とズドンとした重さが残る物語でした。これは、「これまでの物語だと意図的に避けられてきた『歴史を守る』の一面」だと思います。どんなに残酷な出来事でも、歴史である以上は守らなければならない、という。権力者同士の利益の衝突する領地争いのような戦ではなく、弾圧や重税に苦しんだ「民」の起こした一揆。普通の戦ならば、一応は「軍人」が戦いますが、今回は主に「民間人」。軍人だってもともとは民間人ですけど、やはり民間人が死ぬのは余計やるせない……。
 パライソといい、東京心覚といい「考えさせられる」作品だなと思いました。これまでは「娯楽寄り」というか、いろいろ考えさせられる部分もあるけど「単純に面白かったと消費することも出来る」作品だったように思うんです。消費する、っていうと悪く聞こえるかもですが、「娯楽作品」として後腐れないというか。「楽しかった、面白かった」という満足感の高い作品だった。もちろんパライソも「面白い作品」なのですが、先に言ったように「ズドンとした重さが残る」と思うのです。双騎の曽我物語も仇討ちという悲しい物語だけれど「積年の恨みを果たしたカタルシスのある作品」として描かれていた。今回は違う。「既に起きたこと」「(2205年から見れば)遠い過去のこと」。でもパライソではそこに生きる人たち、特に山田右衛門作、幼い兄弟、戦を知らない侍たち、キリシタンの民や旧豊臣臣下の農民たち。生き生きと描かれ、エモサクは戦を始めながらも弱さを露呈し敵へ寝返り、兄弟は幼いのに戦乱に巻き込まれ兄は命を落とし、農民や侍たちは震えながら武器を取り散っていく。「数字だけではない命」として描かれた。「三万七千人が死んだ」、ある意味刀剣男士たちが、ひいては「審神者が」殺した。……刀ミュにおいて、「観客」は「審神者」だ。審神者が「歴史を守るために」命じた。「三万七千人が死ぬ事実を守れ」と。「過去の出来事」「変えてはならないこと」「歴史を守るために」「未来を守るために」「2205年を守るために」。……観客の審神者もまた「三万七千人の死の共犯者」だ。そんなことを考えてしまった。
 初見、わたしは鶴丸の「三万七千人救ってみろ」を自分に言われたように感じた。ストーリーの流れとして三日月宛の台詞だというのは思ったし、事実そうである。でも、それを「命じた」のは「わたし」だ、と感じた。わたしは「ゲームプレイヤーの審神者」で「刀ミュという作品の消費者」で「もっと面白い物語を」と求めている。その結果が「三万七千人が死ぬストーリー」だ。だから、自分に言われたように感じたのだと思う。(中井英夫『虚無への供物』を思い出します……未読の方は、ぜひ)

 今回、松井や豊前、大倶利伽羅が自分の心情を歌い上げる歌を歌っていた。松井と豊前はデュエットで心を通わせたけど大倶利伽羅鶴丸鶴丸がうまくかわしてしまった感じ。……これ、髭切がいたらつはものの三日月みたいに「それ以上言わないでくれ」っていう内心まで見透かされてしまったのでは……と思ったり。石切丸を避けているところといい、鶴丸は年上の相手が苦手なのでは。「石切丸に会うと碁の勝負をさせられるから」って言うけど本当は今回の任務について聞かれたりするのが嫌なんじゃないかな……。誰かに自分の真意を知られたくない、って思ってそうな。海に叫んだ怒りは本物だけど、それはあくまで「外に出せる」部分でしかなくて。 みほとせの最後で石切丸はにっかりが「一緒に笑うことはできるよ」と寄り添ってくれたけども、大倶利伽羅はそういうタイプではない。鶴丸はそういう寄り添いをそもそも求めているのかな……。審神者に対しても「頼れる存在」であろうとしてるし、他の男士に対してもそう。じゃ、鶴丸自身は誰を頼るんだろう……。

 前回の感想に長長と「殉死」について書いたけど、見直す時はあまりそれを考えないようにしました。命と信仰をはかりにかけるのはよくない……が、「その時」が来てしまえばはかりにかけざるを得ないし、どちらを選ぶのか、というのはわたしにとって非常に重要なことなのだけど。今、「選ばずに」いられることが幸運なことなのだと思う。
 この物語はあんまり宗教的な部分に触れなかったけど「信仰を選んだ人」、「その巻き添えを食った人」、「信仰はともかくとして生きるために武器をとらざるを得なかった人」、「武士階級に生まれたから戦に出ざるを得なかった人」、「平和な未来のために戦った人」……他にもきっといろいろ理由があって、そんなたくさんの人たちの物語だった。鶴丸が「そんなはっきりと白と黒だけじゃない。赤や青もいるだろう」と言うように。パライソはどの立場にも寄りすぎずに描かれた物語だと思う。
 この物語……信仰に偏ると遠藤周作『沈黙』みたいになるんだろうなあと思いました。刀ミュで信仰に偏った作品は作られないと思うけど、天草四郎が生きていたら、彼は何を思ったんだろう、どんな物語になったんだろう……と思いました。この物語、天草四郎が亡くなったのは信仰に偏る物語にしないため、というのもあるのかもしれない……。

 そういえば、長曽祢の「三日月と鶴丸は信用していい」と浦島に言った言葉に「そんな丸投げでいいのか?」と少し引っ掛かりを感じたのだけど、これ「三日月と鶴丸なら浦島のことを守る戦略を取る」と思ってるからそう伝えてるのかもしれない、と思いました。浦島は(おそらく)本丸の新参者で、刀時代に戦の経験がない。「刀剣男士」として基本的な戦闘能力はあれど長期の戦略的判断などはまだ難しいから「迷ったら古参の二人を頼れ」と伝えてるのかなと。実際、鶴丸は一番きつい戦場は浦島に見せないように遠ざけたり、三万七千人殺す覚悟をさせるより自分が憎まれることを選んで(浦島は憎まなかったけど)「浦島を傷つけない」ように立ち回っている。三日月も同様な行動をするんじゃないかな。おそらく鶴丸も三日月も仲間をなるべく守る戦略を取る。だから長曽祢も二人を頼れという。「新人が困ったときに誰の判断を仰げば間違いがないか」の基準で「古参かつ「守り」の判断をする三日月か鶴丸」。
 ……この視点だと「阿津賀志山異聞時点の加州清光」は長曽祢にとって弟を委せられない刀だったかもしれない、と思いました(笑)。阿津賀志加州、戦略が攻撃的だから……。この辺、もし阿津賀志山異聞で浦島が隊員だったら、長曽祢は加州清光を信じろと言わない気がする……むしろ「加州は戦慣れしてるが血気にはやるところがあるから脇差のお前がサポートしてほしい」みたいなアドバイスするんじゃないか。そしたら、浦島は加州のことを一歩引いて見て、その決断がおかしい時は疑義を呈するんじゃないだろうか(まあその場合は加州も「長曽祢さんの弟に無茶させるわけには」ってセーブかけるかもしれんけど、加州は今剣に容赦なかった前歴があるからなあ……)。
 もしメンバーが違ったら……みほとせメンバーだったら物吉が天草四郎役やるしかなくて、でも笑顔で人を集めて歴史を守って、ラストで大泣きしそう……とか考えてしまった。

 これで作品に対しては今のところ以上かな。あとは……「自分が信仰を持っていなかったら、何を感じただろう」と、思いました。初見で「殉死」に気持ちをほとんど持っていかれてしまったので(笑)。これ「転ぶ」ことを強要されるシーンが入ってたら、わたしは見返すことも出来なかったかもしれない……(『沈黙』も一回読んだだけでその後読み返せなかったので……)。もっとフラットな気持ちで見れたのかな。
 違う自分だったら、というのは考えてもせんないんですがね。